Lost Universe -sample(第1話)-

「兄貴。俺、夢が叶った……プロサッカー選手になれたんだ」
ある日の夕暮れ、人気がなくしんとした公園の一角で透き通った少年の声が響く。
「しかも兄貴と同じチームだなんて、何かの運命じゃないかって思うんだ」
年齢は十八歳、活発そうに見えるがどことなくあどけなさも残り、肩につくかつかないかといった短めの茶髪が見た目に鮮やかな少年は、高校指定の制服姿でサッカーボールを胸に抱いて屈託の無い笑顔をこちらへと見せる。
心から嬉しいからこその笑顔だと、一目見るだけで即座に分かってしまう笑顔だ。
「兄貴はもうチームの中心選手だし、それに比べたら俺はまだヒヨッコだけどさ。すぐに追いつくから!」
少年は頬を高潮させ、溢れ出る興奮から言うこともままならない様子だがそれでも一言一言慎重に発する。
少年からしてみれば、遠征続きで家に帰ってこない兄との久しぶりの再会だった。
次に兄に会うときまでには良い話をしよう……そう思って頑張ってきた少年にとって、今の“現実”は希望に満ちていた。
「俺と兄貴で最強のディフェンスラインを作ろうぜ、最強の鉄壁をな」
少年は兄のことが大好きだった。
昔からサッカーが上手くて、優しくて、勉強も教えてくれて、更には美味しい料理を作れる最高の特技まで備わっている。
自分は兄を上回ることなんて何も無い。ただ、兄の弟としての僅かな素質が夢を叶えてくれただけ。
「俺の次の夢は、兄貴と同じピッチに立つこと……俺たち二人で代表戦に出ること」
早く兄の背中に追いつきたい。少年からしてみれば、最初は小さく爪の先ほどにしか見えなかった兄の姿が、年を追うごとに連れて近づいている実感があった。
兄は若干二十一歳にしてチームに欠かせない選手の一人と名を挙げ、代表戦にまで名を連ねるようになった。
そんな兄のことを誇りに思い、目標とし、もう少しでこの手が兄の背中に届くような気がして……少年の手のひらは小刻みに震えていたが、やがてそれはぎゅっと握り締められて拳へと変化していた。
「青戸駿と青戸集、俺たち兄弟の名前をこの国の連中に知らしめてやるんだ!」
――少年にとって、兄の存在こそが全て……そんな兄に少しでも追いつけた気がして、言葉にならない嬉しさを噛み締めている。
兄の手のひらが頭上に置かれ、静かに撫でるようにゆさゆさと揺れる……その手のひらの温もりは一生忘れないと笑顔を零した。

***

「間もなく、当列車は東部地方へと入ります。上陸の際は乗車券とパスポートが必要になりますので、各自用意の上……」
とある年の初春、十五両編成のリニアモーターカーの三両目。空席が目立ち、着席している乗客も読書やうたた寝をしていたなかに穏やかな女性の声が響いたのは、発車から四時間が経った頃だった。
「……」
車両の中ほどに、一人で窓際に座り隣の空席に荷物を置いている青年の姿がある。
発車したときからコンクリートの壁しか映らない窓辺に肘を立て、更にその上に顎を乗せてうつらうつらとしていたが、車内にアナウンスが響くと静かに瞳を開く。
右手を口元に当てながらも欠伸をしつつ、青年の視線は空いていたもう左手の手首に巻かれた腕時計へと向く。
時刻は夕方の十七時。定刻通りだと青年の虚ろな瞳はデジタルの盤面に映る――青年は黒髪短髪、整った顔立ちは非常に落ち着いていて、起きたてだからかどこかぼうっとしている。
背は高く百八十センチは過ぎた背丈にすらっとした細身の身体。
動きやすい白いシャツと黒色のチノパン、脚には薄汚れたスニーカーをはいてこうして見る限りでは体育会系の装いだろう。
今、何か夢を見ていた気がする――青年はふとそんなことを考える。
それはずっと昔、弟がプロサッカー選手になれたと報告してきたときの残像だ。
あの頃の自分は毎日が楽しかったし、心身ともに充実していた。しかし、今の自分は……そう考えたところで、青年は小さく溜息を吐く。
考えても無駄なことだと思考を働かせることを諦めたのだ。
「……」
停車駅が近づき減速し始めた車内にはモーター音が響き、ふと青年は視線を窓の外へと向ける。
すっかり薄暗くなった空が見え、見慣れたようでそうでもない町並みが見え、車内の光に反射して窓には青年の顔が映る。
――新天地に来たと言うのに随分とやる気のない顔だと、我ながら笑いたくなる。
ふと青年は何かを思い出したかのように窓から顔を背けると、隣の席に置いたスポーツバッグを掴んでぐいと引き寄せると、その中から手帳サイズほどの薄い冊子を取り出すと、無表情で一ページだけめくってみる。
そのページだけは横向きに使われ、ページの半分を青年の顔写真が占めている。
どこかやる気のない、ぼんやりとした顔写真の横には「青戸 駿」と書かれた青年の名前と生年月日――年齢に換算すると今年で二十八歳になることが記されている。
顔写真の右下には複製や偽造が出来ないようにとホログラムの認印が押してあって、下には「東部外務省」と発行元が書いてある。
言うなればこの冊子はパスポート……この国に外務省は二つあり、そのうちの一つで発行されたものというのも彼は“東部”の人間だから。
そしてこれから降り立とうとしているのは“西部”――同じ国内でも近くて遠い、一生縁がないと思っていたところだ。
青年――青戸は虚ろな瞳でパスポートに貼られた自分の顔写真を見ていたが、やがてぱらりとページを捲ると未記入の渡航記録ページになる。
そしてそこには一枚の写真が挟まっていて――今から五年前に弟と撮った写真だと、青戸は数分前に見ていた夢を思い出す。
同じ青色のユニフォームを着ている二人の胸には国の代表であることを示すエンブレムが光る……弟がプロに入って二年、代表選手に青戸兄弟の名を連ねるまでにそう時間は掛からなかった。
どちらともなく肩を組んで写真に写る青戸とその弟、集は眩しい笑顔を輝かせていて、弟にとっては二つ目の夢が叶った瞬間でもあった。
あれから五年――兄もまた、ある目的のために動き出そうとしていた。
「間もなく西部中央ターミナルに到着します。お降りの際は忘れ物をなされませんように、ご注意くださいませ。間もなく――」
ぼうっとしていた青戸は、車内に響くアナウンスと機械的な停車音が耳に届いてはっと我に返る。
完全にリニアモーターカーが停車したことを確認すると、ゆっくりと立ち上がって隣に置いておいた黒い薄手のコートに手を掛けた。
「……さてと」
青戸はパスポートを畳むとコートのポケットへと突っ込み、そのままコートを引っ掛けるようにして肩に羽織る。
元々並以上の背丈と風貌を持っていたのでこうして立ち上がると独特の威圧感があるが、当の本人はそれには気づかない。
仮にそう言ったオーラを持っていたとしても過去形に過ぎないと、青戸は今の自分の立ち位置を理解していた。
スポーツバッグを肩に掛けて車両からホームへと踏みしめたとき、冷たい風が頬を打つ――故郷とは違う風だと、青戸は心の隅で僅かな寂しさを覚える。
それでもこの道を選んだのは自分なのだと、暫し立ち止まって空を見上げていた青戸だったがやがてその足は一歩一歩とどこかへと歩き出す。
エスカレーターで下り、それなりに混み合ったコンコース内を人の間を縫うように進む青戸は、改札口の手前にある窓口へと向かう。
『西部入国管理局』とプレートのついた三個ほどある窓口の一つの前に立った青戸は、透明のプレートを挟んで立つ受付の女性へとパスポートを差し出した。
同じ国内なのに地方を行き来するのにはパスポートが必要で、そんな規則になったのは随分と昔の話だがずっと東部で生まれ育った青戸にとっては初体験だった。
「はい、名前と職業は」
まだ二十代前半だろうか。どこか幼い顔つきの女性は規定の制服を着て青戸の目の前に座っていたが、差し出されたパスポートを受け取りつつもテンプレートに沿った言葉を発する。
まずは本人とパスポートの顔写真が一致していること、そして氏名を確認しつつ、職業は単なるおまけにしか過ぎなかったが――ほんの数秒だけ考えた後、青戸はゆっくりと見知らぬ土地の空気を胸一杯に吸い込んだ。
「……青戸、駿……職業は、無職です」
「……」
あまりにも青戸がリアリティな職業を述べたことで、受付の女性は声を失ってぽかんとした瞳で青戸を見上げ返してしまう。
今までと幾多との入国希望者と同じやり取りをしてきたが、ここまで生々しい理由を述べる者は青戸が初めてだった。
「えっと……こちらへはご旅行ですか?」
「いえ、西部に移住しようと思って。今日まで無職で、明日からは一応肩書きが付きますけど」
いくら本当のこととはいえ、無職は言い過ぎたかもしれない……パスポートを青戸へと返しつつも引きつった笑みの女性を前に、青戸はぎこちない笑みを浮かべた。

LOST UNIVERS
#01「上陸」

この国は横長な国土を二分するように分かれ、東部と西部に分かれている。
しかし、その区分けはただの線引きではなく、“国境”でもある――この二つの地域は大分類では同じ国なのにも関わらず、それぞれで自治が行われている独特国家でもある。
東部と西部、それぞれに首相がいて、政治組織があって、その下には何千万人との住人がいる……この国が分裂してしまったのも何十年か前の政治的な相違による地方間の仲違いから、しかし今にしてみればそんな理由はどうでもいい。
分かることと言えば、同じ国内なのにも関わらずパスポートがなければ反対側へ行けないこと、そして反対側に住む者は絶対悪だと義務教育の時代から教え込まれていたこと。
それでも勿論事情があって反対側に引っ越さなければいけない者もいるが、そんな場合でも『反対側から来ました』なんて安易に言えるはずが無い。
『同じ地方でも遠いところから来た』と、その日買ったばかりの地方地図を片手に遠そうな地域の名前を挙げる者も少なくないのだ。
東部と西部に分かれた二つの地域はそのような特殊な事情はあるものの、それ以外は他の国と何ら変わりのない平和な場所だった。
そしてここは西部地方の中ほどに位置した中都市のある中学校、その校内の一角に配置された女子サッカー部部室。
プレハブ建てでさして広くも無い室内で、一人の少女は部活を終えて慌てた様子で帰り支度を終えると鞄を手に引っ掛けていた。
そんな少女の背中にチームメイトの一人が視線を向けたのは、彼女が部室を出て行こうと扉に手を掛けた直後。
「モッチー、帰っちゃうの?」
「うん、スタジアム行かなきゃ!今日はスカーレッツの試合があるからさ」
チームメイトの問いかけに身体を止め、くるりと身体を返しながらも迷わずにそう叫ぶのは倉持真夏、中学二年生。
小柄な体格と百五十センチない背丈、活発さを滲ませる黒髪のショートカット屈託の無い笑顔が印象的の女子生徒である。
彼女はこの学校では女子サッカー部に所属し、ポジションはディフェンダー。
自軍ゴール前で身体を張るポジションということもあり、小柄な体格の彼女には不利にも見えるが持ち前のガッツで泣き言などは一切言わずに果敢にも身体を張る。
その懸命な姿が評価されて二年生ながらスタメンに抜擢されているが、練習のたびに彼女の身体は擦り傷だらけになっていた。
今日もまた頬に真新しい絆創膏を貼っていたが、彼女はそんなことも気にすることなく溌剌とした笑顔を浮かべる。
今日はただの放課後ではない。もうすぐスカーレッツスタジアム――ここから三十分ほど自転車を走らせたところにあるサッカースタジアムで試合があるのだ。
真夏は自分でプレーするだけではなくプロの試合を見ることも好きなこともあり、地元チームでもあるスカーレッツを応援しているのだがチームメイトの反応は薄い。
「スカーレッツ?だってあのチーム、強くないし」
「そんなの分からないよ、今日は絶対にスカーレッツが勝つって。じゃあお先!」
乗り気ではないチームメイトの言葉に口を尖らせながらも、真夏は一人部室を飛び出した。
彼女は小走りで校舎の片隅に設置された駐輪場へと向かうと、荷物を前篭に詰めてハンドルを押して校舎の外へと出る。
「よっと」
確かにスカーレッツは強いチームではない、二十チームが参加するプロサッカーリーグでも十位から十五位を漂っているチームで、上位進出には程遠い。
今はまだシーズンが開幕して四試合、一勝二敗一引分という成績で胸を晴れる成績でもない。
チームメイトは強いチームやビジュアルの良い選手などを好むようで、全国的な有名度を誇る選手のいないスカーレッツには興味が無い様子。
それでも真夏は地元のチームという愛着故か、ホームゲームの時はこうして観に行ってしまうのだが……彼女は中学校からこの地へ引っ越してきた転校生だったので、幼い頃からこのチームのサポーターというわけではない。
「皆もスカーレッツを観ればいいのに」
真夏は寂しそうにそうぼやきながらも自転車をこぎ、田園風景広がる一本道をひたすらに進み続ける。
彼女が進むたびに羽織っていたジャージの上着がバタバタと強く靡くが彼女は気にせずに進む。
スカーレッツのホームである西部地方紅西地区は総人口が十万人ほどの中都市で、自然に溢れた長閑で住みやすい場所でもある。
普段はしんとしていて、スカーレッツの試合があるときだけは他地区のナンバープレートを付けた車やツアーで来たらしきバスが列を作る。
その光景は慣れたものだと思う一方、スタジアムで試合が行われる証だと思うとわくわくして来る――そうして真夏がスタジアムに着いたときには、既に試合が始まって前半が二十分ほど経過したときだった。
いつもの場所に自転車を停め、駆け足で入場ゲートへと向かうとシーズン開幕前に手に入れたシーズンチケットをチケット係へと見せる。
スカーレッツスタジアムはドーム型で、収容人数は五万人とそれなりの規模と設備を持ち、スタジアム内は座席ごとに一階から五階までと分かれている。
真夏の持っているシーズンチケットはホーム自由席、つまり熱い同志が集まるゴール裏でもある。
スタジアムに着くや否や、ゲートの合間にあるベンチの前で立ち止まると持ってきたレプリカユニフォームをスポーツバッグから取り出すと頭から被りながらも頭上にあるモニターへと視線を送る。
今日の相手はリーグ四位のウイニングス、リーグ十五位のスカーレッツからしてみればかなりの格上相手でもある。
ウイニングスは素早いパス回しからの即攻が武器で、攻撃も去ることながら守備にもある程度の定評がある。
最近のウイニングスの試合も開始十分以内に先制していたことが多かったので、三十分を過ぎた今でも互いに無得点なのは善戦と言えるだろう。
「……良かった、まだ試合は動いてない」
真夏はスカーレッツを象徴する真紅と濃紺を基調としたユニフォームを着込みながらもそう呟く。試合が動く瞬間はこの目で見たいから。
ちなみに彼女のユニフォームに選手のネームや背番号は入っていない。
スカーレッツの選手は全員好きで、良くも悪くも突出する選手がいない……ある種、チームメイトが興味を持たない理由を真夏も受けている部分もある。
しかし真夏はお気に入りの選手がいないのは、顔や知名度の問題ではなかった――この地へ引っ越してくる前に、ずっと追いかけていた選手がいたからだ。
彼は代表選手として選出されるほどの実力を持っていたが知名度はあまり高くなく、プロリーグに詳しい者なら知っている程度。
一見地味な存在だが、それでもジャンプの高さと小柄な身体の割に当たり負けしないフットワーク、敵チームにも恐れられていたディフェンダーがいた。
まだ真夏がこの地へ引っ越してくる前は良く彼のプレーを観にスタジアムへ通いつめ、彼の名前の入ったレプリカユニフォームを着ていた記憶がある。
しかしやむを得ない引越しのために彼を見る機会がなくなってしまったこと、それに去年の秋に突然彼が引退するというニュースを耳にしてからは意中の選手はいなくなってしまった。
それでも特別好きな選手はいなくてもチームが好きだから良いのだと、真紅のユニフォームを着た真夏が荷物を肩に掛けてゴール裏へと向かおうと振り返ったとき――真夏の目は驚きで見開かれた。
丁度真夏の数メートル先、通路の端の壁に寄りかかるようにして一人の青年が立っていた。
二十代半ばから後半か、端正な顔にどことなく冷たさを滲ませた青年の背は高く百八十センチはあるだろうか。
スカーレッツのユニフォームを着るでもなく、Tシャツとチノパン、上には黒いコートを羽織るという私服姿。
ただ、青年はぼうっとしてモニターを見つめていた……その目は何かを探るようで、普通の目ではないことは確かだった。
真夏が驚いたのはその瞳だけではない、彼が見覚えのある姿そのものだったから……彼女はぽかんとした顔で、無意識のうちに一歩、二歩と青年へと歩み寄る。
近づけば近づくほどに予感が確信へと変わる。真夏が彼の目の前に立ったとき、青年も彼女の姿に気づいたのか視線を頭上のモニターから彼女へと移したその瞬間。
「――あ、あの!えっと、その……青戸選手ですよね?去年の秋までスナイパーズでプレーしてた」
「……」
気がつくと真夏は青年へと声を掛けていた――震える少女の声に、青年――青戸は冷ややかな眼差しを向ける。
長旅の果てに西部へと降り立った青戸は荷物を駅前のコインロッカーへと詰めて財布一つでこのスタジアムへとやってきた。
元々プロサッカープレイヤーとして飯を食べていた青戸にしてみれば、やはり西部地方のサッカーリーグにも興味があったのだ。
同じ国の中で東西に分断されているこの状況では、プロサッカーリーグも東西別にそれぞれ開催されている。
今から数年前までは他国との試合の際は東西別に選手が選抜されて合同チームを組んでいたが、ある事件によって東西間の仲は急激に悪くなった。
もっとも、その原因もサッカーの試合だったが……一名の死者と数名の負傷者が出たことは国際的な問題となり、結局この国は特殊例として東西別に代表メンバーを組むことを認められた。
つまり同じ国内で二つの代表チームが存在する異質な事態になったが、今となればそれが“当たり前”として受け入れられている。
そもそもプロサッカーリーグは東西ごとに開催されていたのだから、どちらかに生まれ育った者にとっては大きな問題ではない……青戸のように地方を跨いだ人間が異質さを痛感するくらいで。
ちなみに同じ国といえど向こう側のプロサッカーリーグの話、ましてやそのチームを応援するなんて裏切り行為に値する。
東部地方で生まれ育った青戸はニュース番組で東部地方の政治情勢やスポーツの試合結果を見てきたが、西部地方の情報はただの一度も見たことは無い。
そして西部地方へ移った今、今度は西部地方のことしか報じられないのだろうと思っていたときに突如現れた少女――真夏が向こう側の地方でプレーしていた自分のことを知っていたことはそれなりに驚きだった。
「ず、ずっとファンでした!」
頬を紅潮させてそう叫ぶ真夏の姿に、青戸は表情を変えずに小さく息を吐く……自分のことを知っている人物がいたことが予想外だったので、静かに彼は首を横に振った。
「……俺、もうスナイパーズの選手じゃないから。それに、ここは」
ここは西部だ。向こう側のチームの応援なんてしないほうがいいと忠告しようと思ったとき……真紅のユニフォームを着た真夏は小さく頷いていた。
「分かってます。私も、ずっと東部に住んでましたから」
「……」
試合中ということもあり辺りに人はいないが、話題が話題なので声を落とす真夏の言葉を青戸は黙って聞いている。
「だから青戸選手のことも知ってたんです。ずっと下位に沈んでいたスナイパーズを上位常連にして、鉄壁とまで言わせるようになった守りとか、生で観ていなかったんですけど、六年前の代表戦で見せたスーパーディフェンスを見て」
「……」
六年前――あの事件よりも昔だと、青戸は若かりし日のことを思い出す――もしかしたらあの頃が自分の絶頂期だったのかもしれない。
サポーターと話す機会はあまり無かったため、自分のことを褒められることには慣れなくて――
「私、今学校で女子サッカー部に入ってて、青戸選手みたいなディフェンダーを目指してるんですけど……身長足りないし、うん、難しい」
「……」
「でも、去年のオフに青戸選手が引退するって話を聞いて、驚いちゃって」
「――」
へへっと笑っていた真夏が一転、寂しそうな表情を滲ませたとき、青戸もまた僅かに驚きの表情を見せる。
それは真夏と会話をはじめてから、初めて彼が表情を変えた瞬間でもあった。
「……こっちまで俺の情報が回ってくるのか?俺は代表戦はたまに呼ばれて途中出場する程度の選手だったんだぜ。最近は呼ばれもしなくなったけど」
ここは西部地方、東部地方の話題はわざと避けているだろう場所で、自分の情報が流れていることに驚きを持ったのだ。
彼女の言葉を受け、自然と青戸の表情が険しくなったことに気づいた真夏は、困ったように首を傾げて見せた。
「え、ああ、えっと、インターネットで調べたら……表向きでは報道されませんけど、なかには好きな人もいるんですよ」
そう真夏は笑い、最後に私もですと言葉を付け加える。
この様子からして、多分彼女も東部からの移住者とは言えずにいるのだろうと薄々察する。
それでも、今彼女が着ているのはスカーレッツのユニフォーム……長いものに巻かれているのかと、青戸は彼女へと素朴な疑問を口にした。
「……今はスカーレッツのサポーターになったのか」
「あ、うん。ここに引っ越してきたから地元のチームを応援しようかなって」
青戸の問いかけにきょとんとしていた真夏が思い出したかのように右足を軸にしてくるっと身体を一回転させると真紅のユニフォームが風を受けて靡く。
ずっと青いユニフォームを着ていた青戸にとっては目に鮮やかだと表情を引きつらせつつ、密かに背番号やネームの入っていない素の状態も目に付いた。
「どうだ、スカーレッツは強いか?」
「えーっと……攻撃力はあるんだけど守備がザルっていうか、当たり負けするっていうか……高さが無いから競り負けてるっていうか」
何気ない青戸の質問に真夏は動きを止めると、おもむろに顔を上げてモニターに映る試合の様子を見やる。
もうすぐ前半が終わろうとしているが未だに両チームに得点に絡むような動きは無い……ただ、白と黄緑色のストライプのユニフォームを身に付けたウイナーズが度々攻撃を仕掛けるも歯車が合わずに得点できないように見える。
青戸は試合が始まったときからずっとここで戦況を見つめていたが、確かに彼女の言うとおり守備面に相当の不安がある。
まるで、その姿は――
(……俺が入ったときのスナイパーズみたいだな。何にしても守備がザルすぎて使い物にならないが……)
まだ高校生だった青戸が加入した東部のプロサッカーチームを思い出し、どこか懐かしい思いに駆られてしまう。
あのチームは最終的には良いメンバーと良いスタッフ、そして良いサポーターに恵まれて常勝チームになることが出来た。
しかし、今の青戸にはそんなチームを抜けて未開の地に来てまでもやり遂げたいことがあったから……
「あ、でも良い動きをする人もいるんですよ、例えば九番の旭とか」
険しい表情を浮かべる青戸の様子に気づいたのか気づいていないのか、はっと思い出した様子で真夏は振り返って青戸を見上げる。
やはりプロ選手は長身で、細身で、無駄な脂肪がついていない理想的な身体をしていると真夏は感動すら覚えてしまう。
ただでさえプロ選手と会話できる機会なんて滅多に無いことなのに、よりにもよって目の前に立っているのは憧れの選手だった青戸である。
彼はじっと頭上のモニターをぼうっと見上げていて、その虚ろな瞳は一体何を考えているのか――そもそもどうして選手を引退した彼がこの地にいるのだろうか。
そんなことを考えていた真夏を他所に、突然青戸は視線を落として彼女を見下ろして来たので予期せず目が合ってぎくりとしてしまう。
ずっとスタジアムの客席から、距離が近いといってもテレビ画面や雑誌でしか見たことの無かった青戸が目の前にいる。
「おい、あんた」
「な、何でしょうか!」
その彼が自分と目を合わせて話しかけて来た――頬を染めた真夏はぎくりと肩を震わせながらも、上ずった声を出した。
そんな彼女へ青戸がすっと片手を差し出したのはその直後……きょとんと目を丸くする真夏を見下ろし、青戸は差し出した手のひらでくいと自分自身を示すように指先を曲げる。
「スカーレッツのことを教えてくれた礼に、サインの一枚くらい書くけど」
そういえば彼女は自分のファンだと言っていた。嘘か本当かを聞くつもりはないが、少なくとも自分のことを知っているのは確かだ。
「い、いいんですか!?」
「別に、それでいいなら」
それでも――彼女が張り裂けんばかりの笑顔を浮かべてくれたので、本当なのかもしれないと青戸も思ってしまう。
そういえば、昔の自分も好きな選手を目で追いかけていた時期があったような気がすると、ほんの少しだけ懐かしい気分になる。
真夏はその場に屈むと、足元に置いてあった自分のスポーツバッグのチャックを開けてガサガサと何かを探しているように見える。
「えーと、えーと」
真夏はそう呻きながらも片手をバッグの奥へと突っ込み、学校で使った教科書やノートを掻き分けて極太の油性ペンを取り出している。
そして何にサインを書いてもらおうかと首を捻っていた真夏の背中へ、青戸はさっきから抱いていた疑問をぶつけていた。
「……あのさ、何でユニフォームに背番号付けないんだ?」
「あ、えっと、スカーレッツは特に好きな選手がいないっていうか……皆均等に好きなんです。青戸選手がスカーレッツに来てくれたら、真っ先に付けちゃうのに」
「……」
青戸の問いかけに真夏は振り返ると、えへへと恥ずかしそうな笑みを零しながらもそう説明してくれる。
確かに本人を前にしてそんなことを言うのには多少の躊躇いは必要かもしれない、それでもそう言えるのは子供故かと青戸は小さく息を吐く。
彼女が自分のことを知っていたから、自分と同じ東部出身だったかあ、何よりも、目の前にいるのが純真無垢な子供だからこそ――つい青戸は口走ってしまった。
「三番」
「え?」
「俺の背番号」
「――」
突然番号を口走った青戸に気づいた真夏は、手を止めてきょとんとした様子で背後に立つ彼を見上げ返す。
今、彼は三番と言った……確かスナイパーズ時代は加入直後は二十番、そして代表戦に選ばれ始めたころからはずっと二番を付けていたはずだ。
ならば三番とは何だろう――あまりにも真夏がぽかんとして固まっていたので、青戸は内心言わなきゃ良かったと思いつつも彼女の手から油性ペンを取ってすぐ目の前に屈んでいた。
「大人しくしてて」
「わ……!」
油性ペンのキャップを外して反対側へと取り付けると、青戸は真夏の着ているぶかぶかのユニフォームの前面、赤一色の部分に片手でユニフォームを伸ばして平面にしつつも英語で自分の名前を記していた。
彼女の意思など全く無視した行動だったが、彼がユニフォームに自分の名前を書いてくれていることと三番を自分の背番号だと言った意味が、何となくだが分かった気がした。
「……ほら、勝手に書いちまったけどこれでいいか?」
「は、はい!」
青戸は油性ペンを真夏へと返しながらもそう告げると、暫しの沈黙の後に彼女はこくこくと頷く。
その時丁度壁の向こう、グラウンドの方角からざわざわとした声が聞こえる――時間を見ると前半が無得点のまま終わりハーフタイムへと入っていた。
応援席で試合を観ていた深紅のサポーターも、今がチャンスだと言わんばかりに通路へと姿を見せ始めたので、青戸は静かに立ち上がると彼女へ背を向ける。
「じゃ、俺は用事があるから。後半は向こうで観てこい」
向こう――つまり応援席で見て来いと青戸が遠ざかり始めたとき、背後から真夏の声が聞こえる。
「……えと、頑張ってください!応援してます!」
本当はもっと言いたいことがあったけれど、端的にまとめるとこれしかない。
真夏にとって青戸はサッカーを観るようになったきっかけで、プレーヤーとしても目標とする選手で、こうして彼と話すことが出来るなんて夢のようだ。
しかも、これからはまた彼のプレーが見れるなんて――瞳を輝かせて青戸の背中を見送る真夏を他所に、青戸の表情はどこか冷めた目をしていた。
それは遠い昔を思い出した懐かしさからか。
それは遠い昔に覚えた虚しさからか。
自分のことが好きだったと言ってくれた少女がいた、それでも過去の栄光に縋りたくて国境を越えたわけではない。
(俺はスナイパーズの青戸じゃない、スカーレッツの青戸だ――)
昔の自分に信念があったように、今の自分にも同じような想いがある……今の青戸はまだスタート地点に立ったばかりだった。

 

※今作は2012年5月に無料配布した「Lost Universe -PREVIEW BOOK-」の第一話全文になります。
完全版「Lost Universe 01」はこの第一話を加筆修正+二話を新規収録しています。